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知覧特攻平和会館 [ ┗博物館などをうろうろと]

南九州市知覧町
道路わきには延々と灯籠が
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雨降ってきました…☂

知覧特攻平和会館 HP
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なかの写真はありませんが

この付近には終戦間際 知覧陸軍飛行場がありました。
多くの特攻隊員がここから必死の出撃をしていきました。

wiki>1944年末、陸軍航空総監部は『航空高級指揮官「と」号部隊運用の参考』の作成に着手、これは1945年4月ごろ関係部隊に配布された。1945年1月19日陸海軍大本営は、「帝国陸海軍作戦計画大綱」の奏上で、天皇に全軍特攻化の説明を行う。1945年1月29日陸軍中央は『「と」号部隊仮編成要領』を発令。2月6日参謀本部は特攻要員の教育を『「と」号要員学術科教育課程』の通り示達。2月23日、中央はと号部隊の第二次編成準備を指示。3月20日実行発令。
沖縄戦では、第6航空軍所属の各振武隊と第8飛行師団所属の各誠飛行隊が次々と編成され、出撃していった。また飛行第62戦隊の重爆撃機による特攻も行われた。このうち、6航軍司令官は菅原道大中将が務め、知覧・都城などを基点に作戦が遂行された。また、海上から四式肉薄攻撃艇(マルレ)を装備した陸軍海上挺進戦隊による水上特攻も行われた。6航軍航空参謀倉澤清忠少佐によると、当時の陸軍では部隊を天皇の命令で戦闘をする直結の「戦闘部隊」と志願によって戦闘する「特攻部隊」に区別し、決号作戦のために航空機を温存するため、また操縦が容易な機体である九七式戦闘機などの旧式機が主に配備された。同作戦に参加した振武隊員1,276名のうち、機体故障などの理由によって帰投した605名は福岡県の振武寮(福岡女学院女子寮)に収容され、その存在は秘匿された。特攻隊員の生き残りは、その後、本土決戦のための特攻要員として全国に配備された。

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てんてん

知覧陸軍飛行場には、一度行ってみたいと思っています。
by てんてん (2014-11-18 08:35) 

tarou

お早うございます、ゼロ戦見に行ったこと有ります。
by tarou (2014-11-18 09:48) 

Sazaby

>てんてんさん
 是非訪れてくださいませ

>tarouさん
 このころにはもう零式も時代遅れの機体で、それも特攻が編成され始めた理由なのかもしれません。
by Sazaby (2014-11-18 22:24) 

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